長浜450年戦国フェスティバル継承特別企画展 「秀吉を支えた武将たち~三成と七本槍の物語~」

期間 12月7日(木)~2月4日(日)
休館日 12月27日(水)~1月2日(火)

概要
 天正10年(1582)、本能寺の変で織田信長が没すると、信長の次男・織田信雄と三男・信孝との家督争いが始まります。この延長戦上で行われたのが、信雄側に付いた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と信孝側に付いた柴田勝家が争った賤ケ岳合戦です。
 南下する柴田軍とそれを防ぐ羽柴軍が余呉湖周辺にて対峙する中、天正11年(1583)4月20日に柴田軍の佐久間盛政が、羽柴軍の中川清秀が守る大岩山を奇襲しました。その後、岐阜に出陣していた秀吉が、北近江へ戻り、大岩山から撤退する佐久間隊を追撃します。この勢いに押された柴田軍は撤退し、秀吉は勝家を追って、勝家の居城・北ノ庄城を攻め、勝家は自害しました。
 この戦いで、その活躍が喧伝され有力武将となっていくのが、福島正則、加藤清正、片桐且元、脇坂安治、加藤嘉明、平野長泰、糟屋武則の七人です。これら七人は賤ヶ岳七本槍と呼ばれ、秀吉の天下統一の足掛かりとなった賤ケ岳合戦とともに有名となります。本展では、敵方の情報収集に当たるなど賤ケ岳合戦時に活躍した長浜出身の武将・石田三成にも焦点を当て、賤ケ岳七本槍と三成の活躍を紹介します。
 また、本展開催に合わせ、賤ケ岳七本槍と石田三成の活躍を取り上げた、今村翔吾氏の小説「八本目の槍」に関するパネルを1階ロビーと3階展示室で展示します。中でも、今村翔吾氏の直筆サイン入りパネルは必見です!

主な展示資料


▲羽柴秀吉書状写 こほ宛 1枚 紙本墨書 原本:天正(天正2年⦅1574⦆10月22日) 当館蔵
長浜城主となった秀吉が、秀吉の母・なか(のちの大政所)の侍女とされるこほに宛てた書状です。この書状の中で、秀吉は、長浜城下に造った長浜町の住民に認めていた年貢・諸役免除を中止しようとしましたが、母・なかの反対があり、年貢・諸役免除を継続することを伝えています。
この史料は、秀吉と長浜町に関する数少ない史料の一つとして、その存在が知られていましたが、原本は所在不明でした。今回、長浜町衆の家に伝わった文書群の中から、本史料が発見されました。原本が伝わっていないため、写しですが、秀吉が長浜町に行った経済振興策を示す史料として大変重要です。長浜開町450年を記念する年にこうした史料が発見されたことに、秀吉と長浜の深い縁を感じます。


▲羽柴秀吉書状 羽柴秀長宛 1幅 紙本墨書 (天正11年⦅1583⦆)4月3日 当館蔵
羽柴軍と柴田軍が、余呉湖周辺の山々に城砦を築き、1ヶ月にわたり対峙する中で、長浜城にて指揮をとる秀吉が田上山(長浜市木之本町)に陣を置く、弟・秀長に宛てた書状です。秀吉は、この書状の中で、秀長に戦略を支持しています。全7条からなり、羽柴軍の前線である堂木山・東野山砦から木之本雄に至るまで、陣を構え、堀と作で囲んだ「惣構」の外から出ずに、守備を固めることで、柴田軍が追い詰められるのを待つように命じています。賤ヶ岳合戦直前の状況を伝える史料として貴重です。


▲石田三成像 1幅 紙本著色 明治時代 石田三成公事蹟顕彰会蔵
杉山家伝来の石田三成像を、明治時代なって模写したものです。石田三成は、石田村(長浜市石田町)に生まれ、兄である正澄とともに、長浜城主・秀吉に仕えました。賤ヶ岳合戦では、柴田軍の動向を探る役目を命じられたことがわかっており、また、7本槍とほぼ同時に柴田軍へ突撃した「先懸衆」にも入っていたことが知られています。